登場人物 | 嘉納治五郎伝 柔の道
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柔道の創始者「嘉納治五郎」の伝記アニメ

登場人物登場人物

  • 嘉納 治五郎
  • 徳川 慶喜
  • 勝 海舟
  • 嘉納 次郎作
  • 伸之助
  • 嘉納 定子
  • 福田 八之助
  • 飯久保 恒年
  • 竹添 須磨子
  • 朝倉 文夫
  • 渋沢 栄一
  • グラント
  • 磯 正智
  • 九里 龍作
  • 富田 常次郎
  • 立花 種恭
  • 西郷 四郎
  • 嘉納 行光
  • ワシリー・
    オシェプコフ
  • 富田 常雄
  • 三島 通庸
  • パトリック・
    ラフカディオ・ハーン
  • 清国人留学生
  • 川石 酒造之助
  • オーギュスト・
    ジェラール
  • ピエール・ド・
    クーベルタン
  • 金栗 四三
  • 三島 弥彦
  • 平沢 和重

摂津国の灘五郷の酒蔵、本嘉納家の分家である浜東嘉納家に生まれ、9歳の時に父に伴われ、上京した。幼少時に柔術がたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であると聞き、学ぶ機会をうかがっていたところ、東京大学在学中に縁あって天神真楊流に入門。二人の師匠(福田八之助、磯正智)の下で修行した後、更に別の流派である起倒流を学び、学習院で働き始めた頃(1882年)に、この二流を合わせた講道館柔道を創始し、永昌寺に道場を構えた。その後、自身が勤めた各学校での柔道採用や警視庁での柔道採用を経て柔道の知名度を上げ、門下生を増やしていった。また、第五高等中学校や高等師範学校の校長を歴任し、教育者として多くの卒業生を輩出。その他、アジア初のIOC委員として日本のオリンピック初参加や東京五輪招致活動などスポーツの普及にも尽力した。

江戸時代末期の江戸幕府第15代将軍(徳川家最後の将軍)。在職期間:1867~1868年。慶応3年(1867年)に大政奉還し、翌年に江戸城を明け渡した。その後、静岡に移り住み、政治から距離を置いて油絵、釣り、弓術、狩猟、ビリヤードなど様々な趣味に没頭した。中でも写真にはかなり熱中し、写真師から撮影技術を学んで、自ら現像などを行っていた。運動のために取り寄せた自転車を乗り回していた姿は市内でたびたび目撃され、地元の人々から「けいき様」「けいきさん」と呼ばれ、親しまれた。大のコーヒー好きとしても知られている。

幕末期の幕臣。明治初期の政治家。1862年(文久2)軍艦奉行並として神戸に海軍操練所を設け、幕臣や坂本龍馬らを指導。その期間中の定宿に次郎作邸を利用した。明治維新の際には幕府の陸軍総裁として官軍の西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城、徳川家存続、慶喜助命の功を上げた。晩年を過ごした東京・赤坂の屋敷に若き日の治五郎が訪れた際に「(学習院の教師を辞めて)しばらく学問に没頭しようと思う」と相談した治五郎に「(没頭したい理由は)学者になるためか、それとも社会で事をなすためか」と尋ね、「後者のためにしばらく学問に集中したい」と治五郎が答えると、「それでは学者になってしまう。事をなしつつ学問をなすべきだ」と忠告した。その助言以降、治五郎は必要に応じて本を読み、実践的な知に基づく教育を心掛けるようになった。

治五郎の父。近江国日吉大社の社家(世襲神職)生源寺希烈(しょうげんじまれたけ)の四男・希芝(まれよし)。嘉納家に逗留し、論語を教えたことが縁で浜東嘉納家2代当主・嘉納治作の娘・定子と結婚し、婿養子として迎え入れられ、次郎作(治郎作とも)を名乗った。養父・嘉納治作の廻船業を引き継ぎ、幕府の廻船方御用達となって、勝海舟から和田岬砲台等の築造工事を請け負った。慶応3年、幕府所有の汽船貸下げに出願し、長鯨丸、奇捷丸、順動丸、太平丸などを託され、日本最初の洋式船舶による江戸―神戸―大坂間の定期航路を開いた他、同年の兵庫開港に合わせて大坂の豪商らが出資した「兵庫商社」の設立にも尽力した。明治維新後は政府に仕え、貿易や海運を担当し、明治17年に海軍権大書記官に任命された。

嘉納治五郎の幼名。家族からは「伸坊」という愛称で呼ばれていた。10歳の時に母・定子が他界。明治政府に招聘され、先に東京で暮らしていた父・次郎作に伴われて上京。その際に伸之助は「治五郎」に改名した。

治五郎の母。浜東嘉納家2代当主・嘉納治作の娘。治五郎は自身の母について「母は実に慕わしい又恐ろしい人であった。普段は洵(まこと)に可愛がってくれたが、何か間違ったことをした時は飽くまで咎め、本当に悔悟するか少なくとも悪かったと云うことを自白するまで許してくれなんだ。(中略)今ひとつ覚えていることがある。それは母が常に他人の為に自分を忘れて尽くすことである。誰にこうして遣ろうとか、彼にこうして遣ろうとか、誰が気の毒であるとか、よく心配して居ったことを覚えている」と回想している。幼少期に見た他者に尽くす定子の姿が、後の治五郎の思想形成に影響を及ぼしたと考えられ、柔道修行と徳育について「人は相互に尽くし合い親切に物事を成さねばならぬ」と説いた。

天神真楊流家元・磯又右衛門の高弟。幕府の講武所で世話心得として柔術を指導した後、日本橋元大工町で整骨と柔術道場を営んだ。治五郎が東大に入る前に通っていた育英義塾や開成学校では、腕力の強い者が幅を利かせ、弱い者は常にその下風に立たなければならなかった。極めて虚弱な身体だった治五郎は、肉体的不利を克服するため、幼少時から聞いていた、たとえ非力なものでも大力に勝てる「柔術」を学ぼうと所々を探し回り、1877年(明治10年)頃に日本橋の人形町通りで整骨を営む八木貞之助から同門の福田八之助を紹介され、福田道場(わずか9畳の道場)で天神真楊流の柔術を学び始めた。福田の教授法はすべて体で覚えさせる体得主義で「おいでなさい さぁ、おいでなさい。」と言って、技の原理や掛け方などの説明がないまま、治五郎は投げられ続けた。

1881年6月に天神真楊流の師匠・磯正智が亡くなった後、治五郎が新たに入門した起倒流柔術の師匠。起倒流は天神真楊流の投技とは掛け方が違い、治五郎は飯久保のことを「投技の名人」と称え、技の研究に没頭した。治五郎は講道館を創設した後も永昌寺の道場に飯久保を招き、形と乱取の稽古を続けた。

漢学者・竹添進一郎の次女。華族女学校(現・学習院女子中・高等科)在学中(卒業前)に治五郎と見合し、1891年8月7日に結婚した。治五郎は「かつて親しみのある人々から、双方のことを相知る機会があったので、話がたちまち成立した」と後年に語っている。挙式後1か月ほど浦賀で同居した後、治五郎は熊本の第五高等中学校へ単身赴任し、留守の間、須磨子が塾生・門下生の世話をした。治五郎との間に三男五女をもうけ、次男の履正は第3代講道館長を務めた。

東洋のロダンと称される彫塑家(彫刻家)。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後、下谷区谷中天王寺町(現・台東区谷中)に創作活動の拠点となる自宅兼アトリエを構え、後に後進育成のための彫塑塾を併設した。治五郎が三期25年に及ぶ東京高等師範学校校長を退任した後、高師の同窓会組織「茗渓会」の有志が嘉納治五郎先生功労記念として全国の茗渓会員に寄付を募り、治五郎の喜寿の祝いに高師の敷地に銅像建立を計画し、朝倉がその依頼を受けた。除幕式には、治五郎の孫・嘉納行光とともに朝倉が除幕の綱を引いた。

「近代日本経済の父」「日本資本主義の父」と称される実業家。幕末期に一橋家に仕え、明治維新後に大蔵省で新しい国づくりに関与した後、民間経済人に転身。第一国立銀行を拠点に企業の創設・育成に注力し、生涯に約500もの企業に関わった。治五郎との最初の出会いは明治12-13年頃で経済学の科外講師として東京大学に毎週一回ほど来ていた時にその講義を治五郎が聴講していた。当時は、経済学を教えられる日本人講師がまだいなかったため、講義は外国人講師が担当していたが、銀行に関する講義については当時、第一国立銀行の頭取だった渋沢栄一が担当した。治五郎は後に「渋沢子爵は、現在社会の表面に立つて居る誰よりも先輩であつて、事を共にしたり、世話になつたりした人は、極めて多数あらうが講師としてその講義を聴いた人は、極めて少数であらうと思ふ。そして自分は、その少数の一人である。」と述懐している。

ユリシーズ・シンプソン・グラント。アメリカの南北戦争で北軍の総司令官として活躍し、勝利を呼び込んだ名将。その後、第18代アメリカ合衆国大統領(アメリカ史上初の陸軍士官出身大統領)に選ばれ、任期終了後に夫人とともに世界周遊の旅に出て、その途中1879年6月に日本に訪れた。1879/6/21に軍艦リッチモンド号で長崎入港後、7/3に横浜に入港した。7/4 明治天皇に謁見、8/5 飛鳥山の渋沢邸に招かれ、午餐会に出席。その会に治五郎は天神真楊流 磯又右衛門の門弟として同席し、グラントの前で柔術の形を披露した。グラントはその後、9/3 横浜を出港し、日本を去った。現在の50USドル札に肖像画が使われている。

天神真楊流の三代目家元・磯又右衛門正智。福田八之助の師匠で神田於玉ヶ池に道場を構えていた。1879年8月(渋沢邸での柔術披露の翌月)に福田八之助が急逝した後、治五郎はしばらく福田道場を預かったが、更なる修行のために磯道場へ入門した。治五郎は福田道場での経験を買われ、直ちに幹事(指導員)に抜擢された。その当時、磯は60歳ほどの老齢であったため、乱取の指導を幹事に任せ、自身は形の指導を行っていた。治五郎は磯のことを「形の名人」と称え、天神真楊流の形について多くのことを学んだ。

治五郎の東大時代の同級生。1850年生まれ。紀州熊野本宮大社神人の家系・高須兵太夫の息子。実父の弟である両替商の紀伊国屋(九里)正三郎の養子となり、九里に改姓。1869年に養父・正三郎が大阪西成郡今宮村に持っていた別荘を五代友厚に貸し、各地から買い入れた古金銀貨幣を溶解・分析する「金銀分析所」の開設に協力した縁で、1870年に正三郎が他界した後、五代友厚は恩人の甥である龍作の学費などを援助した。龍作は官立外国語学校から東京大学理学部に進学し、天神真楊流に入門していた治五郎に誘われて柔術を開始。1879年にグラント将軍の前で治五郎と柔術の形を披露した。1882年に官費留学生としてロンドン大学で機械工学を学び、1885年に帰国して東京大学教授に就任。同年9月に病死した五代友厚の遺言に従って友厚の長女・武子と1886年に結婚。五代家当主として鉱山業を引き継いだ。

伊豆国君沢郡久連村出身。明治12年頃、海軍省の艦材課長だった嘉納次郎作が艦船用材伐採検査のため、天城山に出張していた時に次郎作に誘われ、嘉納家の書生となった。(次郎作が休憩所として利用していた海軍病院の院長の妻の弟が常次郎)。講道館の最初の入門者であり、最初の段位取得者。明治26年に富田家の婿養子となり、山田から富田に改姓した。嘉納邸内の道場で治五郎の指示の元、芦谷スエ子を指導した。(女子柔道の始まり)。息子は小説家・富田常雄。西郷四郎、横山作次郎、山下義韶とともに講道館四天王と称された。

治五郎が学習院で働き始めた時の学習院長。明治10年10月17日「華族学校」の開業式で、天皇の命により校名が「学習院」と改まり、初代院長となる。以降7年にわたって学習院長を務め、明治17年(1884)4月に学習院が宮内省所管の管理学校となった後、5月24日に院長を退任。その後、宮内省に奉職し、明治17年(1884)5月に宮内省御用掛、同年10月に華族局御用掛、同19年に華族局主事補、同21年5月には爵位局主事補、明治22年7月に同局主事となり、明治26年3月に依願退官した。一貫して華族局および爵位局(明治21年5月28日に華族局を改称)に在職しており、院長退任後も学習院の監督機関に身を置いていた。その間、明治17年(1884)7月、華族令制定により子爵となった。明治23年7月、貴族院創設に際して子爵選出議員となり、子爵会の中心的存在として死去まで在任した。

会津藩士 志田貞二郎3男として会津若松に生まれ、津川町で育つ。1882(明治15)年上京。井上敬太郎の天神真楊流 修心館で治五郎と出会い、講道館に入門。1884(明治17)年、保科近悳(幕末期の会津藩家老・西郷頼母)の養子となり、志田から保科に改姓。さらに1888(明治21)年、廃家となった西郷家を復興して西郷四郎に改姓した。富田常次郎、横山作次郎、山下義韶とともに講道館四天王と称された。

治五郎の孫。第4代講道館長、全日本柔道連盟第2代会長。1980年から約30年にわたって館長・会長職に就き、柔道界を牽引した。1936年(昭和11年)11月28日に、彫塑家・朝倉文夫製作の嘉納治五郎像が東京文理科大学本館前広場(旧東京高等師範学校本館前)に設置され、除幕式が行われた際に当時4歳の行光が朝倉とともに除幕の綱を引いた。

サハリン出身。日本の神学校に在籍していた1911年(明治44年)に講道館に入門し、ロシア人として初めて二段を取得した。帰国後、ウラジオストクに最初の道場を構え、ロシアに初めて柔道を普及させたことから「ロシア柔道の祖」と言われている。2016年9月24日にその功績を称えるため、最初の道場があった建物脇に「嘉納治五郎から黒帯を受け取るオシェプコフ」の銅像が設置された。ロシアの格闘技「サンボ」の創設者の一人でもある。

富田常次郎の息子。小説家。講道館四天王・西郷四郎をモデルにしたと言われている小説「姿三四郎」はシリーズ化し、映画化、テレビドラマ化を果たし、富田常雄の代表作になるとともに柔道人気に大きく寄与した。

第5代警視総監。1885年に総監に就任以来、武術大会を奨励し、大会で活躍した講道館柔道を警視庁の必修科に採用した。この出来事が講道館躍進の転機となった。後に日本初のオリンピック選手となる三島弥彦の父。1888年、警視総監在任中に病死した。

出生名:パトリック・ラフカディオ・ハーン。ギリシャ西部のレフカダ島生まれ(イギリス国籍)。19歳の時にアメリカに移住し、20代からジャーナリストとして活動。万博で出会った日本文化や英訳版「古事記」などに触発され、40歳の1890年4月に来日。同年8月に島根県松江で尋常中学校の英語教師となり、翌年、治五郎が校長を務める熊本県の第五高等中学校(五高)に赴任。この時に見た柔道を1895年に出版した「Out of the East」の中で「Jujutsu」として紹介した。五高を1894年に退職し、神戸クロニクル(新聞社)での短期勤務を挟んで東京帝国大学、早稲田大学で教鞭を執り、1904年に「怪談」を出版、同年9月に病死。私生活では1891年に女中として雇用した小泉セツ(節子)と1896年に正式に結婚し、帰化手続きを経て小泉八雲に改名した。

1896年、清国駐日公使の裕庚が西園寺公望文相兼外相に清国政府派遣の留学生受け入れを要請し、西園寺は高等師範学校の嘉納治五郎校長に清国留学生の教育を委託した。同年、第一陣の清国留学生13名が来日。神田三崎町に学校兼寄宿舎を設立し、高等師範学校の教室等の施設を利用して日本語と副科(算術・理科・地理・歴史)の授業が行われた。清国留学生(官費・私費)は、1907年のピーク時に1万人を超えたが、1905年に発布された「清国留学生取締規則」によって減少の一途をたどり、1911年に勃発した辛亥革命(清朝の滅亡と中華民国の成立を導いた革命)の影響で、多くの留学生が帰国した。しかし、派遣母体を失った官費留学生は仕送りが途絶え、帰国もままならず、生活も困窮した。その際、治五郎は私財を投じて彼らの生活を支援した。

「フランス柔道の父」と称される柔道指導者。留学目的で訪れたアメリカを皮切りにブラジル、イギリス、フランスを歴訪し、各国で道場の設立や柔道の指導に関わった。外国での指導経験から言語の壁が柔道の普及を妨げる要因になっていると考え、フランス在住時に技の種類を番号で表す指導法「メトードカワイシ」を導入した他、白帯と黒帯の間に段階的な目標となる黄・橙・緑・青・茶の色帯を採用し、柔道初心者の理解度と上達意欲を高める環境を整えた。この工夫によって川石は道場の経営を軌道に乗せ、さらに有段者になった弟子達にも道場経営を促し、柔道教師という新たな職業をフランス国内に確立した。その結果、柔道教師を目指して柔道に励む人が急増し、フランス全土に柔道クラブが数多く誕生した。これが今日の柔道大国フランスの礎になったと言われている。

IOC会長のクーベルタンから日本を代表するIOC委員に相応しい人物の選出と推薦を依頼された駐日フランス大使。ジェラールは信頼できる日本人として評価していた駐ロシア大使・本野一郎からIOC委員の適任者として嘉納治五郎を紹介され、当時、東京高等師範学校の校長だった治五郎に会見を申し出た。その会見でジェラールは欧米各国の委員で構成、運営されているIOC(国際オリンピック委員会)にまだ一人もいないアジアの代表としてIOC委員に就任してほしいと治五郎に打診した。その後、すぐに治五郎は外務大臣・小村寿太郎、文部大臣・菊池大麓に相談。大臣の賛同を得て再びジェラールを訪ね、IOC委員を引き受ける旨を伝えた。

国際オリンピック委員会(IOC)を組織し、1896年にギリシャのアテネで第1回オリンピック競技大会を開催することに尽力したフランスの男爵。第2代IOC会長(在位:1896年4月8日〜1925年9月1日)。1905年、ブリュッセルで開かれたオリンピック・コングレスに協力していた駐ベルギー公使ジェラールがオリンピズムを正しく理解していると判断し、IOC委員に相応しい人物を日本から探し出し、就任を促す役目をジェラールに委託した。その後、ストックホルム五輪で治五郎と初めての対面を果たしたクーベルタンは、スポーツの奨励や三育思想など共通の考え方を持つ治五郎と意気投合した。

1891年生まれ。10歳時には往復12kmの通学路を毎日走っていたほどの健脚の持ち主で、1910年に入学した東京高等師範学校でマラソンの才能が開花。1911年に国際オリムピック大会選手予選会で当時の世界記録を大幅に縮める大記録で優勝。翌1912年開催のストックホルム五輪に日本初のオリンピック代表選手として短距離の三島弥彦と共に参加し、開会式では日本選手団のプラカードを掲げた。レース当日は猛暑に見舞われ、出場68人のうち34人が棄権する過酷な状況の中、金栗も日射病により、26.7km地点でコースを外れて昏倒。近所のぺトレ家で介抱された後、翌日に林中佐と友枝助教授に見つけ出され、駅まで歩いて汽車でホテルに戻った。この時、棄権申請せずに帰国したため、記録上は競技継続のままとなり、1967年のストックホルム五輪55周年記念式典に招待され、54年246日32分20.3秒という世界最長タイムで完走した。この記録はギネス世界記録に認定されている。

1886年生まれ。学習院から東京帝国大学に進学し、在学中の1911年に羽田運動場で行われた、大日本体育協会主催の国際オリムピック大会選手予選会で100m走、400m走、800m走に優勝。翌1912年開催のストックホルム五輪に日本初のオリンピック代表選手としてマラソンの金栗四三と共に参加し、開会式では日本選手団の旗手を務めた。同大会では、100m走と200m走の予選で敗退、800m走は予選を通過したものの足の痛みが激しく棄権。東大卒業後、横浜正金銀行に就職し、陸上競技を引退した。第5代警視総監・三島通庸の五男。学生時代はスポーツ万能で「運動会の覇王」と呼ばれた。

外交官補として在米大使館に勤務していた頃、一時帰国のために乗船した氷川丸で治五郎と同じ食卓を囲んでいた一人。1959年5月25日、ミュンヘンIOC総会でオリンピック招致のスピーチ予定だった外交官・北原秀雄の代役(※)として4都市競合の最終プレゼンに臨み、45分の制限時間が与えられている中、わずか15分で1964年東京オリンピック開催立候補趣意説明をまとめ上げ、最多票獲得に貢献した。※北原が出発直前に骨折し、渡欧できなくなったため、東京市長が北原の友人で外交官出身のNHK解説委員・平沢に代役を依頼した。